親戚の「うなぎやさん」は、静岡市の人宿町にあるんですが、ちょうど神社などで行われる豆まきを個人でやっていたんですね。で、なんでこんな事を書くのかというと、その「うなぎやさん」の向かいには「電気館」という映画館があって、映画全盛の初期の頃なんですが、その映画館より「うなぎやさん」の豆まきには人が集まったという話です。
昭和の第2次大戦の前の話らしいです。祖母がその親戚の「うなぎやさん」で働いていたので母も近所のよしみで、その電気館には、タダで入れてもらって映画を観ていたそうです。
なんか聞いていると、情景が浮かんできて、のんびりとした時代だったんだな、なんて思います。
私は、当然ですが、その電気館を見た事はありません。母の話では空襲で親戚の「うなぎやさん」も電気館も焼けてしまったらしいです。
今、靜岡で残っている静活系の映画館街。その中の靜岡オリオン座のちょっと先を曲がったあたりに親戚の「うなぎやさん」はあるんで、電気館があったらしい場所はわかるんですが、現在の街並みからは想像も出来ないくらいに、人宿町が賑やかだった時代があったんですね。
母の話のなかには、明治館という映画館も出てくるんですが、今度は明治館について聞いてみたいと思っています。
私が知っている靜岡の映画館のことを書く前に、さらに昔の映画館のことを書いたのは、ちょうど先日、NHKのブラタモリで浅草が取り上げられていて、そんな話を母としたからです。
ちなみに、「うなぎやさん」の名前は「池作」と言います。母の話では静岡市では一番古い老舗の鰻屋さんだそうです。
追記:
ちょっと気になったので、ネットで靜岡の電気館を調べてみました。ヒットしたページを読んでみると、母の記憶とは、違う記述が見られます。しかし、そのページに書かれている内容は、私が読んでもちょっと違うようなものも含まれていました。そのページはコチラです。靜岡ピカデリーの最近の写真が多く載せられていますので、記述は別にして、靜岡の人間としては、かなり嬉しい紹介ページである事は確かです。
さて、その内容ですが、現在の靜岡ピカデリー1の前身は、確かに靜岡大映劇場です。しかし、実際は大映作品専門上映館としてスタートして、後に松竹作品専門の靜岡松竹と名前を変えます。その後、現在の靜岡ピカデリーとなり、靜岡ピカデリー2の登場により、静岡ピカデリー1となります。
また、この建物の1階部分は、当初アイススケート・リンクで、次に改装されて例えば池袋の文芸座と同じ、一般的に名画座と呼ばれる靜岡名画座となります。その後、現在の靜岡ピカデリー2になります。
屋上部分にある、靜岡小劇場も、プラネタリウムがあった頃は、ニュースを専門に見せるニュース喫茶として営業しており、後に建て直して靜岡小劇場となります。
靜岡ピカデリーの前身として電気館の名前も出てきますが、このページの記述は、靜岡日活劇場についてのものなので、靜岡ピカデリーの所在場所とは違います。現在靜岡ミラノ1.2.3が建っている場所です。
靜岡日活は、現靜岡ピカデリーの道を挟んだ隣りに位置し、静岡日活の後、日活がロマンポルノ製作に移行した段階で、靜岡日活も靜岡並木座と名前を変えます。そして現在は、靜岡ミラノ3として邦画洋画の封切館として営業しています。
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